シベリア抑留・・・夫のファミリーヒストリーが壮絶すぎた
こんにちは、Sallyです!
先日、夫のおじいちゃん&おばあちゃんをしのぶ会で家族20人ほど集まりました^^
お義父さんは戦後に家族でアメリカへ渡り、初めてラザニアを食べて感動した話
は聞いていたのですが・・・(笑)
夫でさえ初めて聞いた話が盛りだくさんで驚いていました!
親のことは知っていても、お爺ちゃん・お婆ちゃんはなかなか詳しく知らなかったりします。
戦後壮絶の中、生き延びた日本人家族だと思うので、上手く子供の世代にも伝えていければと備忘録として綴ってみました!
戦前アメリカで金魚の輸出をしていた
おじいちゃん
奈良県出身 1908年生まれ
おばあちゃん
愛知県名古屋市出身 1916年生まれ
戦前はアメリカのニューヨークで金魚の輸出ビジネスをしていたそうです。
詳しい年代は分かりませんが、1941年に真珠湾攻撃が起きているのでその前後にはアメリカにはいられなくなったかと思われます。そのため、年齢を逆算すると20代〜30代かと。
この時代にアメリカでビジネスするとは、
なかなか変わった経歴ですよね・・・!
満州へ派遣される、お婆ちゃんと出会う
ニューヨークで金魚の輸出ビジネスをしていたが、日米対立のため帰国。
しかし、アメリカ帰りという経歴のため、スパイ疑惑をかけられる心配がありました。
そこで、当時勤めていた日本陶器(現ノリタケ)に恩情で満州へ派遣される。
満州駐在中に、商社マンの娘で天津にいたおばあちゃんと結婚。
どうやら、会う前から結婚は決まっていたらしくお見合い結婚だそうです。
その後、1943年にお義父さん(夫の父)が中国の奉天(現 瀋陽)で生まれる。
夫と結婚する際に戸籍を見たけど、確かにお義父さんの出生地が中国で驚いた!
もし手を離していたら・・・
戦後、ソ連が満州へ攻めてくる情報をいち早く入手した政府関係者や軍人は、真っ先に満州を脱出し、一般人のみ約170万人ほど取り残されることに・・・。
ちなみに、夫が自衛隊に入るということで、
お婆ちゃんがこの話をして居心地が悪かったそうですw
「疲れた。もう歩けない・・・。」と泣き喚く当時3歳だったお義父さんをお婆ちゃんは引き連れ、命からがらコロ島から船に乗り日本に帰国する。
満州脱出は壮絶だったみたいで24万人も帰国できずに亡くなった方がいるそう・・・。
お義父さん曰く、もし手を離していたら残留孤児になっていたかもしれないと話していました。
もしお義父さんが手を離して諦めていたら、
私は夫に出会えていなかったと思うと感慨深い。
お爺ちゃんはシベリア抑留
終戦間際、お爺ちゃんは徴兵され国境警備についていたところソ連軍の捕虜になってしまいました。
厚生労働省のデータによると、約57万5千人の方がシベリア地方(内モンゴルも含む)に抑留され、極寒の寒さで凍死してしまったり、栄養失調や重労働でおよそ5万5千人もの方が亡くなってしまったそうです・・・。
シベリア抑留中は、日本にいるお婆ちゃんに手紙を送っていたそうです。
お婆ちゃんが亡くなった際にお義父さんが遺品整理をした際に手紙を見つけたそうです。
お義父さん曰く、字が汚すぎてとても解読できなかったとか(笑)
夫の字が汚いのも、お爺ちゃんの遺伝かもしれない!
ソ連軍の捕虜になってしまった方は、だいたい5年〜10年で解放されたにも関わらず、おじいちゃんは3年と他の捕虜に比べて早く解放されました。
何故、お爺ちゃんが早期に解放されたのかは未だに不明です。お爺ちゃんはソ連で起こった事を絶対に話さなかったみたいです。相当過酷で壮絶な出来事だから思い出したくなかったのでしょう。
一年に一度だけ、同じように捕虜になった友人がお爺ちゃんの家へ訪れ2人でこそこそと1日中会話していたそうですが絶対に近寄ってはいけなかったそうです。
プロペラ機に乗って再びアメリカへ
お爺ちゃんが捕虜から解放され日本へ帰国。
家族とともに陶器ビジネスのため、ウェーク島、ハワイ経由で当時はかなり珍しいプロペラ機に乗って再び渡米しました。
- お爺ちゃんは英語が話せる
- 他の捕虜よりも早期に解放される
- シベリア抑留のことは絶対に話さない
- 当時は珍しいプロペラ機で再び渡米
上記の点から、もしかしたらお爺ちゃんはソ連軍のスパイだったかもしれない!
と家族は少し疑っていました。なんせ謎が多すぎますからね・・・!
お義父さんのかなり年の離れた妹の出生地はニュージャージー。お義父さんの10代はアメリカで過ごし、大学進学のため日本へ帰国し仕事上の理由で家族を連れてオーストラリア・中東とグローバルに拠点を移していたみたいです。
まとめ
戦後の壮絶な歴史がとても身近に感じました。
まだまだ謎に包まれていることがたくさんあり、お義父さん・お義母さんが生きているうちにお話しを聞きたいと思います。夫の家系が、日本人でありながらも英語が話せる家系であることに理解できました。
お爺ちゃん・お婆ちゃんが亡くなってからも、兄弟とその子孫がこうやって仲良く集まって想ってくれることはお爺ちゃんたちも本当に嬉しいだろうなあ。本当に充実した一日でした!
「家族との関わりを大切にしたい」とより深く思った日でした♡